これからの「就活」の話をしよう ~クルミドの夕べに参加して~
4月12日(木)
今晩はクルミドの夕べというのに行ってきました。
西国分寺にあるクルミドコーヒー(http://kurumed.jp/)。
月曜日の夜に、マスターが10人前後のお客さんにお話をしてくれます。
今夜のテーマは「正義の話をしよう」でした。
ハーバードのサンデル先生の白熱教室は書籍でも映像でも大人気ですよね。
そこで、今回はDVDを見た上で、マスターの思うところを聞きつつ、
参加者も話しつつというものでした。
今日参加させてもらった理由は2つ。
1つは前から気になっていたからです。
先輩に紹介して頂いて数か月・・・
なかなか参加できずにいて、先週は予約いっぱい。
マスターがすごい人みたいだったのでとても興味がありました。
もう1つは目下悩んでる内容だからです。
別に政治哲学の勉強をしているとか、サンデル先生ラブとかいうわけではないです。
ただ、正義とは何か、を考える過程に興味がある、そこから目下の就活、ひいては長年の課題への示唆が得られるんです。
サンデル先生の講義ってこんな感じですよね。
可否判断が求められる具体的なケースがあって、それに対して意見を述べさせる。
そこで、正義を考える枠組みとして用いられる考え方(判断基準:功利主義、自由主義、道徳)に基づく主張が参加者から出てくるよう発言者を調整する。
3つの枠組みを他のケースにもあてはめて判断させる。
今回は東大で行われた授業のDVDを見て、実際に夕べの参加者もどういう判断をするか話していくというものでした。
この判断を下す過程がどういうものなんだろう・・・と考えることに意味を感じています。
ケースを見て、自身で判断を下すまでの仕組みはこうなるのかなと思います。
「判断材料のインプット→価値観を通じたインプットの処理→アウトプット」
例えば、ブレーキの壊れた列車の先には4人の作業員が、分岐先には1人の男性が。
このとき、そのまま真っ直ぐいくか、それとも分岐点を曲がるか判断せよ。
というインプットがあります。
曲がった方がいい。
そういうアウトプットが出る前に、より多くの人が助かるべき(1人の命<4人の命)という価値観があり、そこをインプットが通過する、ということです。
この価値観が幸福、自由、道徳です。
(授業では「君の考えは~ということだね」という形で3つに収まるように調整されていますね。)
ここでちょっと就活の話になります。
就活の面接で避けて通れないものは志望動機と自己PRですね。
つまり、自分はこうだからそっち「に行きたい」というのと、
自分はこういうことができるからそっち「から引っ張って」というもの。
中でも前者の動機を述べるに当たり、必要な要素として価値観があり、その価値観が見えない発言は無意味だと感じていています。
動機の内容という意味でですよ。
立ち振る舞いと合わせて動機を「伝える」構成要素です。
動機が生まれるまでにいかなる道をたどるのでしょうか。
これは先ほどの判断を下す過程そのものだと思います。
つまり、
「判断材料のインプット→価値観を通じたインプットの処理→アウトプット」
です。
より就活的な表現にすると、
「体験→価値観→入社したい」
です。
けど、伝えないといけないことはかなり違いますよね。
正義の話だと、
アウトプット+理由(価値観)で足ります。
けど、志望動機だとそれじゃ足りません。
誰でも言えてしまうので。
というわけで、
アウトプット+理由+理由と自分の因果関係
まで含めて話す必要があります。
A私は銀行に入りたい。
Bなぜなら金融は目に見えない商品を売るからより大きな信頼が必要になるから。
C私は今まで~な活動を行ったきて、○○ということに大きな価値を見出すようになった云々。
というのも、一見あたり前でも、形の上ではCまで述べているようで、B止まり、誰でも言えるんじゃないそれ。
結局あなたが何を大切にしていて、どうしてそれを大切にするようになったのか話聞いててわからない・・・
と感じる人が多いな、そして通っていないな、と感じるからです。
僕自身、
何でそう思うの?
~だからです。
あ、そう・・・。
みたいなぎこちない面接、一問一答で無機質な会話しかできずアウトな面接がありました。
もちろん、何でもかんでも事細かに自分の生い立ちから話せばいいというものでもないし、自身が無機質に感じてしまいかつ結果も出なかった原因が価値観の表出にあったとは言い切れません。
しかし、少なくとも自分の価値観をもう少し意識して話す、
こういうときどうする?という質問(インプット)に対して意識した価値観を通過させる(それにより、一貫性のある他の発言の信頼を上げる、説得力を持たせる)ことはやらないといけないのではないかと思います。
では、その価値観はいかに明確にすべきかを考えるにあたってはよくいう自己分析しかないのかなと思います。
かつて僕は、過去だけから自分の将来像を導き出すのは限界がある。
だから、将来像の形作りのために沢山OB訪問をする。
と言っていました。
それとは少し別で、今、僕が特定の企業を選択するという行為。
その選択過程は過去の体験の中で醸成された価値観に基づくのは当然かもしれません。
そこで、過去の無数の行動(アウトプット)をとった原因(判断基準、価値観)を探る必要があります。
価値観が完全不変のものではないことに注意もしながら。
また、逆に経験したことのない質問を答えることを繰り返してもよいかもしれません。
例えば、無人島に一つ持っていくとしたら何?のような。
帰納的に価値観が顕わになるはずです。
この「価値観」の部分、もやもやしてるなーと考えるときに、いつも思うことがあります。
それは、価値観を他人に求めることの弱さとかつての法学への期待です。
自分の判断基準になるもの、自分の価値観は何かと問えばそれは人に必要とされることかなと思います。
人に必要とされるというのは、共有する言葉として人聞きよくしたものですけどね。
正確に言うと、かまってもらう、ただし相手もそうすることである程度メリットが生まれるがゆえに持続的にかまってもらえるということです。
それが根底にあって、バンドしたり、学生団体で役員をしたり、相談に乗るという名目で飲んだりしているような気はします。
だからこそ自分がネックと感じることもこの価値観から派生しています。
例えば議論であまり発言できないこと。
その場にとって有益なことがいいたいけれども、しょうもないこと言ってスルーされたくないから自分の中で考える。
しかし、そうして上がったハードルを越えることのできる内容なんて簡単には思いつかず口をつぐんでしまう。
そうして単なる悪循環が生まれる。
口に出して磨かれていくもの(自分もいいこと言えるようになってくはず、自分の発言を他の人が補ってくれるという二つの意味)、ということでとりあえず話してみるようにはしてます。
また、就活の文脈では成し遂げたいことの具体性を欠いてしまします。
人がほんとに喜んでほしい。
けど、人の喜ぶことって人それぞれ。
だから、人がやりたいって思うことを実行する手伝いがしたい。
きっとこれは正直なところだし、何か条件を付けて狭めていってもこれより具体性を持つと内心こじつけになります。
嘘にはならないですが。
何か消極的な感じですよね。
そこで思うのが、次のようなことです。
「こういうことをしたらすっごい楽しい!(そして結果的に人も利益を得られる)」というものがあったとして、純粋に人がやりたいと思うことのどちらか一方を実現させるとき、どちらの方がその人の喜びが大きいか。
もちろん、この2つは常に背反じゃないです。
人の求めることを明確にした上で、それを実行する手段を考えます。
複数手段を挙げた上で、相手が選んだ手段が自分が一番よかれと思うものであることも十分あり得るし、それに誘導することもできるかもしれません。
けど、そうでないときにどちらを選ぶでしょう。
何となく、相手の意図は達成されるけれども、相手が最善とは必ずしも考えない手段をとるでしょうね。
何かそれは相対的功利主義的なものでなく、パターナリスティックな気がしますが、その手段を取る方がより相手にとっての効用が高いなら自身の価値観から反れることもないのでしょう。
そう考えたとき、価値観に「人から見てどうだろう」というものが入り込み過ぎると人にとっての良いもの、提供することで人からより必要とされるものを見誤りがちになってしまうと思います。
ここは「人に必要とされる」価値観の内実の「かまってほしい」部分が邪魔をしていると思うので長期的視点に立って自分の本当の意図通りにもなるように修正しなければと思うところです。
あとはかつての法学への期待です。
中学とか高校のときは、法律は絶対と思っていました。
絶対というのは、条文に書いてあることに解釈の余地はなくて、誰が物事の判断に法律を用いても同一の判断が行われるということです。
きっと、昔から判断基準が他人依存型で個別の判断のぶれに違和感を抱いており、ぶれないものとしての法律を求めていたのでしょう。
けど、条文解釈の学説は複数が対立しているだけでなく、事実に適用するその際にもぶれというか、非画一的になる要素はあります。
とは言うものの、民主主義によって、より多くの人が共通して信奉する価値観が塗り込められたものであること、国民の価値観を集約しようとしている産物ではあると思います。
何が善で何が悪か。
守っていくべきものは何か。
先人の辛い経験や他国の事例、何百年にも渡る闘争を経てまとめられた価値観、そしてこれからもまとめられていく価値観。
そういうものとして法律を眺めるとどことなく面白いですね。
けど、そうして最大公約数的にまとめられた価値観も個別に見ていくと必ずしも大事にされていないのは皮肉なものです。
選挙とか投票とか笑
大事と思うけど行動に移せないのと、そもそも大事と思わないのとは傍から見ているだけではわかりませんが、少なくとも投票に行く人よりは大事にしていなさそうですね。
投票に行ったから大事にしている、も一概には言えないですが。
以上クルミドの夕べに参加して、今まで以上に考えさせられた価値観のお話でした。
行動の一貫性を求めるあまり価値観から演繹して行動をとるのは多少違和感はありますが、一方で筋の通った一連の行動には説得力も生まれるでしょう。
うまく活かしていきたいですね。
今晩はクルミドの夕べというのに行ってきました。
西国分寺にあるクルミドコーヒー(http://kurumed.jp/)。
月曜日の夜に、マスターが10人前後のお客さんにお話をしてくれます。
今夜のテーマは「正義の話をしよう」でした。
ハーバードのサンデル先生の白熱教室は書籍でも映像でも大人気ですよね。
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今日参加させてもらった理由は2つ。
1つは前から気になっていたからです。
先輩に紹介して頂いて数か月・・・
なかなか参加できずにいて、先週は予約いっぱい。
マスターがすごい人みたいだったのでとても興味がありました。
もう1つは目下悩んでる内容だからです。
別に政治哲学の勉強をしているとか、サンデル先生ラブとかいうわけではないです。
ただ、正義とは何か、を考える過程に興味がある、そこから目下の就活、ひいては長年の課題への示唆が得られるんです。
サンデル先生の講義ってこんな感じですよね。
可否判断が求められる具体的なケースがあって、それに対して意見を述べさせる。
そこで、正義を考える枠組みとして用いられる考え方(判断基準:功利主義、自由主義、道徳)に基づく主張が参加者から出てくるよう発言者を調整する。
3つの枠組みを他のケースにもあてはめて判断させる。
今回は東大で行われた授業のDVDを見て、実際に夕べの参加者もどういう判断をするか話していくというものでした。
この判断を下す過程がどういうものなんだろう・・・と考えることに意味を感じています。
ケースを見て、自身で判断を下すまでの仕組みはこうなるのかなと思います。
「判断材料のインプット→価値観を通じたインプットの処理→アウトプット」
例えば、ブレーキの壊れた列車の先には4人の作業員が、分岐先には1人の男性が。
このとき、そのまま真っ直ぐいくか、それとも分岐点を曲がるか判断せよ。
というインプットがあります。
曲がった方がいい。
そういうアウトプットが出る前に、より多くの人が助かるべき(1人の命<4人の命)という価値観があり、そこをインプットが通過する、ということです。
この価値観が幸福、自由、道徳です。
(授業では「君の考えは~ということだね」という形で3つに収まるように調整されていますね。)
ここでちょっと就活の話になります。
就活の面接で避けて通れないものは志望動機と自己PRですね。
つまり、自分はこうだからそっち「に行きたい」というのと、
自分はこういうことができるからそっち「から引っ張って」というもの。
中でも前者の動機を述べるに当たり、必要な要素として価値観があり、その価値観が見えない発言は無意味だと感じていています。
動機の内容という意味でですよ。
立ち振る舞いと合わせて動機を「伝える」構成要素です。
動機が生まれるまでにいかなる道をたどるのでしょうか。
これは先ほどの判断を下す過程そのものだと思います。
つまり、
「判断材料のインプット→価値観を通じたインプットの処理→アウトプット」
です。
より就活的な表現にすると、
「体験→価値観→入社したい」
です。
けど、伝えないといけないことはかなり違いますよね。
正義の話だと、
アウトプット+理由(価値観)で足ります。
けど、志望動機だとそれじゃ足りません。
誰でも言えてしまうので。
というわけで、
アウトプット+理由+理由と自分の因果関係
まで含めて話す必要があります。
A私は銀行に入りたい。
Bなぜなら金融は目に見えない商品を売るからより大きな信頼が必要になるから。
C私は今まで~な活動を行ったきて、○○ということに大きな価値を見出すようになった云々。
というのも、一見あたり前でも、形の上ではCまで述べているようで、B止まり、誰でも言えるんじゃないそれ。
結局あなたが何を大切にしていて、どうしてそれを大切にするようになったのか話聞いててわからない・・・
と感じる人が多いな、そして通っていないな、と感じるからです。
僕自身、
何でそう思うの?
~だからです。
あ、そう・・・。
みたいなぎこちない面接、一問一答で無機質な会話しかできずアウトな面接がありました。
もちろん、何でもかんでも事細かに自分の生い立ちから話せばいいというものでもないし、自身が無機質に感じてしまいかつ結果も出なかった原因が価値観の表出にあったとは言い切れません。
しかし、少なくとも自分の価値観をもう少し意識して話す、
こういうときどうする?という質問(インプット)に対して意識した価値観を通過させる(それにより、一貫性のある他の発言の信頼を上げる、説得力を持たせる)ことはやらないといけないのではないかと思います。
では、その価値観はいかに明確にすべきかを考えるにあたってはよくいう自己分析しかないのかなと思います。
かつて僕は、過去だけから自分の将来像を導き出すのは限界がある。
だから、将来像の形作りのために沢山OB訪問をする。
と言っていました。
それとは少し別で、今、僕が特定の企業を選択するという行為。
その選択過程は過去の体験の中で醸成された価値観に基づくのは当然かもしれません。
そこで、過去の無数の行動(アウトプット)をとった原因(判断基準、価値観)を探る必要があります。
価値観が完全不変のものではないことに注意もしながら。
また、逆に経験したことのない質問を答えることを繰り返してもよいかもしれません。
例えば、無人島に一つ持っていくとしたら何?のような。
帰納的に価値観が顕わになるはずです。
この「価値観」の部分、もやもやしてるなーと考えるときに、いつも思うことがあります。
それは、価値観を他人に求めることの弱さとかつての法学への期待です。
自分の判断基準になるもの、自分の価値観は何かと問えばそれは人に必要とされることかなと思います。
人に必要とされるというのは、共有する言葉として人聞きよくしたものですけどね。
正確に言うと、かまってもらう、ただし相手もそうすることである程度メリットが生まれるがゆえに持続的にかまってもらえるということです。
それが根底にあって、バンドしたり、学生団体で役員をしたり、相談に乗るという名目で飲んだりしているような気はします。
だからこそ自分がネックと感じることもこの価値観から派生しています。
例えば議論であまり発言できないこと。
その場にとって有益なことがいいたいけれども、しょうもないこと言ってスルーされたくないから自分の中で考える。
しかし、そうして上がったハードルを越えることのできる内容なんて簡単には思いつかず口をつぐんでしまう。
そうして単なる悪循環が生まれる。
口に出して磨かれていくもの(自分もいいこと言えるようになってくはず、自分の発言を他の人が補ってくれるという二つの意味)、ということでとりあえず話してみるようにはしてます。
また、就活の文脈では成し遂げたいことの具体性を欠いてしまします。
人がほんとに喜んでほしい。
けど、人の喜ぶことって人それぞれ。
だから、人がやりたいって思うことを実行する手伝いがしたい。
きっとこれは正直なところだし、何か条件を付けて狭めていってもこれより具体性を持つと内心こじつけになります。
嘘にはならないですが。
何か消極的な感じですよね。
そこで思うのが、次のようなことです。
「こういうことをしたらすっごい楽しい!(そして結果的に人も利益を得られる)」というものがあったとして、純粋に人がやりたいと思うことのどちらか一方を実現させるとき、どちらの方がその人の喜びが大きいか。
もちろん、この2つは常に背反じゃないです。
人の求めることを明確にした上で、それを実行する手段を考えます。
複数手段を挙げた上で、相手が選んだ手段が自分が一番よかれと思うものであることも十分あり得るし、それに誘導することもできるかもしれません。
けど、そうでないときにどちらを選ぶでしょう。
何となく、相手の意図は達成されるけれども、相手が最善とは必ずしも考えない手段をとるでしょうね。
何かそれは相対的功利主義的なものでなく、パターナリスティックな気がしますが、その手段を取る方がより相手にとっての効用が高いなら自身の価値観から反れることもないのでしょう。
そう考えたとき、価値観に「人から見てどうだろう」というものが入り込み過ぎると人にとっての良いもの、提供することで人からより必要とされるものを見誤りがちになってしまうと思います。
ここは「人に必要とされる」価値観の内実の「かまってほしい」部分が邪魔をしていると思うので長期的視点に立って自分の本当の意図通りにもなるように修正しなければと思うところです。
あとはかつての法学への期待です。
中学とか高校のときは、法律は絶対と思っていました。
絶対というのは、条文に書いてあることに解釈の余地はなくて、誰が物事の判断に法律を用いても同一の判断が行われるということです。
きっと、昔から判断基準が他人依存型で個別の判断のぶれに違和感を抱いており、ぶれないものとしての法律を求めていたのでしょう。
けど、条文解釈の学説は複数が対立しているだけでなく、事実に適用するその際にもぶれというか、非画一的になる要素はあります。
とは言うものの、民主主義によって、より多くの人が共通して信奉する価値観が塗り込められたものであること、国民の価値観を集約しようとしている産物ではあると思います。
何が善で何が悪か。
守っていくべきものは何か。
先人の辛い経験や他国の事例、何百年にも渡る闘争を経てまとめられた価値観、そしてこれからもまとめられていく価値観。
そういうものとして法律を眺めるとどことなく面白いですね。
けど、そうして最大公約数的にまとめられた価値観も個別に見ていくと必ずしも大事にされていないのは皮肉なものです。
選挙とか投票とか笑
大事と思うけど行動に移せないのと、そもそも大事と思わないのとは傍から見ているだけではわかりませんが、少なくとも投票に行く人よりは大事にしていなさそうですね。
投票に行ったから大事にしている、も一概には言えないですが。
以上クルミドの夕べに参加して、今まで以上に考えさせられた価値観のお話でした。
行動の一貫性を求めるあまり価値観から演繹して行動をとるのは多少違和感はありますが、一方で筋の通った一連の行動には説得力も生まれるでしょう。
うまく活かしていきたいですね。
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